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本荘 赳
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1906年平塚市に生まれる 1926年神奈川県師範学校(鎌倉)を卒業し、大磯尋常高等学校の教師となり、同僚の井上三鋼の弟子となる。淡く滋味あふれる油彩画風を築いた安田靫彦との生涯庭たる親交ががもたれる。93年87歳で没 |
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油彩屏風で
大議論呼ぶ (1906〜1993) |
「湘南ゆかりの画家」より(リンク) 油彩画でありながら屏風という形式と鳥の子紙という素材を用いるという、日本的要素を強く意識した作品である。 描かれているのは山なみと沢、そこに群生する菖蒲。作家の言によると、当初から屏風形式での構成を考えており、全体の構想は明治神宮から得、菖蒲については平塚市内の市岡家の敷地に取材したものだという。 本荘赳(ほんじょう・たけし)は大磯尋常高等小学校に勤務していたとき、やはり同校で教べんをとっていた井上三綱(いのうえ・さんこう)と出会って大きな影響を受けた。以後三綱に師事したが、1930年ごろから一時日本画家・安田靫彦(やすだ・ゆきひこ)の教えもうけた。 ちょうど1940年代から胡粉(ごふん)や弁柄を塗っては削り落とす実験的技法をはじめた三綱という洋画家、そして靫彦という日本画家の二人に教えをうけたことは、本荘の内にあった日本的なものへの志向を補強、刺激するものであったのだろう。 本荘は1935年の初入選以来終生春陽会で活動し、「残照」もまた1943年、第21回春陽会展に出品された。ところが知人重田哲三の記すところ(「阿波多羅」1983年)によれば、審査員に油彩屏風という形式に抵抗感があったためか大論議を呼び、結局、六曲のうち二曲のみを開いたかたちで展示することで承諾させられてしまった。 画面からは、夕陽が右方から差し込み、沢の水面や菖蒲の花に照り返しながらしだいに弱まってゆくという、夕刻の大気と光を表そうと腐心したことがうかがえる。色数を抑え、モノクロームに接近させることによるこうした光の表現を油彩で試みたという点で、本荘は日本的な洋画の在り方の一つを示したのである。(平塚市美術館 学芸員・郡司 亜也子) 平成15年2月27日神奈川新聞 |
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丘陵
油彩 板 F6号 |
「私の愛する一点」より(リンク) |
| 所蔵作品 作家名ほ(本荘赳ほんじょうたけし) | |
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| 2004年秦野五月祭のときにアトリエ菩提樹が製作 | |